フィッシュストーリの吹き溜まり

ガブリエル・ガルシア=マルケス(堀内研二訳)『ある遭難者の物語』を読んで

魔術的リアリズムの旗手にして、現代ラテン・アメリカ文学の雄、ノーベル文学賞受賞者ガルシア=マルケスによるドキュメンタリー。代表作『百年の孤独』は、南米ではソーセージ並みに売れたともいわれる空前のベストセラーとなり、安部公房をはじめとした日本の作家にも強い感銘を与えた。

 

あらすじ

 20歳の水兵が主人公。アメリカからコロンビアへの帰途、自身が乗る駆逐艦が荒波にあい、ほかの仲間たちと一緒に海に投げ出される。主人公のみが救命いかだに乗ることができ、ほかの仲間たちがおぼれていくところをなすすべなく見つめる。そうして、10日間にわたる漂流が始まる。水も食料もない極限状態の中、主人公は飛行機やカモメなどの希望に一喜一憂し、サメにおびえ、太陽に焼かれ、そして時に幻覚を見ながら自身の生死と向き合う。長い漂流の後、主人公は陸地にたどり着き、現地の住民に救助される。その後彼を待っていたのは、英雄的な歓迎と商業的な成功、そして政治的な圧力であった。最後に新聞記者としてガルシア=マルケスが登場し、彼の取材とその後を語ることで物語は締めくくられる。

 

ドキュメンタリーという性質

 先述のようにガルシア=マルケス最大の魅力は、空想的な世界観である。しかし、「訳者あとがき」でも述べられるように、本作はドキュメンタリーという性質上、空想的な部分は少ない。もちろん様々な描写の中に、寓意的な意図を読み取ることは可能であるし、漂流後英雄としてまつり上げられる主人公は、確かに『百年の孤独』の成功後に国家の英雄とされたガルシア=マルケス自身と重なるところもある。

 しかし、やはり本作はドキュメンタリーとして読むべきであるように思われる。文体は極めて簡潔で、漂流譚という性質もあるが会話文はほとんどない。新聞記者出身のガルシア=マルケスの特徴がよく表れていると思う。加えて、会話文なしでも面白い物語を書くことができるという証拠でもある。

 

ノンフィクションの漂流譚としての面白さ

 漂流譚というのは『ロビンソン・クルーソー』をはじめ古来多くの物語のテーマとなってきた。そう考えると、本作の展開や内容は地味かもしれない。しかし、個人的には主人公が自身の生死を向き合う場面には感銘を受けた。例えば主人公は9日目の夜に故郷の家族のことを思い浮かべる。「それは、私のための最後の通夜の晩であった。明日には祭壇をとり払い、みんなはだんだんと私の死になれるようになるだろう。」しかし、その翌日に主人公は陸地を見つけ、生への希望を捨てずに陸地にたどり着く。こうした気持ちの振れ幅を描き出すところに本作の面白さがある。

 

しかし、これはドキュメンタリーなのか?

 ここまで述べてきたことと矛盾するようではあるが、本作は完全なノンフィクションとは言えないところが魅力である。最後にガルシア=マルケスが主人公を取材した際のことを語る「この物語について」は、本作全体の中でもっとも評論家などの関心を集めているようである。ここに至って、これまで語られてきた英雄譚が実は政治的圧力を受けて改変されたものであることが分かる。特に物語冒頭の荒波による遭難の鬼気迫る場面は、実は全くの虚偽であった。こうして本作は独裁政権による情報統制批判にもつながるのであるが、現代の日本の一読者としてみれば、どこまでが真実でどこまでが虚偽か分からないものがもっともらしく語られるところ、このような数奇な運命をたどった主人公のその後にとても興味を惹かれる。