フィッシュストーリの吹き溜まり

逓減性の問題(仮)

 悲しいことはたった二つだ。一つは好きなものがなくなること。もう一つは好きだったものを好きではなくなること。前者に関してはあまり経験がない。私はまだ27歳で、もちろんある人たちにとっては「もう」27歳かもしれないが、とにかく好きなものの大半は私が好きになった時と同じように今もある。中学校の時好きだった女の子は、先生として地元のダンス教室に勤めている。二年ほど前に結婚して、私がどうこうできることはないのだけれど、魅力的な笑顔とくっきりとした二重と少し広い額は出会った頃と変わらず、今でも私をときめかせる。

 問題なのは後者のほう、つまり好きだったものを好きではなくなるということだ。ときめきが減っていく。出会った頃はそれは猛烈にときめく。しかし時間が過ぎるにつれて、それが手に入らないものだと気がついてしまう。私はイケメンでもないし、金持ちでもない。何か特別な才能があるわけでもない。平均以下の工場労働者。どうせ望んだものなど手に入らないとあきらめる。そうしてときめきが減っていく。もちろんそれでも好きなものもある。その場合、好きなものは、家族や本当に親しい友人のような手に入る入らない以前のもの、あって当たり前の空気のような存在になる。当然好きなものを手に入れられるに越したことはない。愛は惜しみなく奪うといったところだ。しかし、そうなることはめったにない。だから、ときめきがだんだんと減っていって、やがて好きだったもののことを忘れてしまう。嫌いになるのではなく。これを私は「ときめきの逓減性」と呼んでいる。

 

 2021年1月、私はあなたのライブに向かう。会場は大田区羽田の小さなライブバー。休日7時前の京急空港線大鳥居駅周辺は人影もまばらで、平日にはサラリーマンや町工場の職人で忙しない平凡な街並みも、はっぴいえんどの「風をあつめて」にうたわれるような少し感傷的な風景に見える。私は環八通りを過ぎ、産業道路に沿って羽田神社を目指し歩き始める。さすがに産業道路は車が多いが、都県境の大師橋まで見通せるほとんど人気のない歩道とまさに漸次的に橙色から水色へ変わりつつある朝焼けの空は、よく澄んだ冬の空気と相まってさわやかだ。いくつかの通りを横切れば、800年前の鎌倉時代、羽田浦水軍領主であった行方与次郎が「牛頭天王」を祀ったのが起源だという羽田神社が見えてくる。

 私は気まぐれに薄いオレンジ色の羽田神社を通り過ぎ、大師橋にのぼってみる。橋備え付けの陸橋を過ぎ、階段を登れば左手には首都高、多摩川スカイブリッジ、羽田空港東京湾が見渡せる。右手には多摩川秩父山地丹沢山地の山々、そして富士山が見えるはずだ。私の足取りも自然と早くなる。ようやく大師橋にのぼり下流のほうを見れば、越冬のためにやってきたキンクロハジロの群れがちょうど着水したところだ。黒い頭と背中、白いくちばしと腹、黄色い目が特徴的なその鳥は、最近多摩川沿いに引っ越してきた私がおぼえた野鳥の一種だ。この橋を渡れば神奈川県川崎市。工場の煙が朝日に照らされて、柑子色に染まっている。次の瞬間に、そういったものは目に入らなくなる。

 あなたが立っているのを見つけた。斜張橋を支える二つの主塔の東京側、その構造のために踊り場のようになっている塔のたもとで、あなたは羽田空港から東雲に向かって飛び立つ飛行機に携帯のカメラを向けている。肩にかかる黒髪は緩やかな海風に揺られ、色白の横顔はやはりうっすらと柑子色に染まっている。ネイビーのボアコート、黒いロングのプリーツスカート、黒いロングブーツ。私は目を奪われながらも、くだらない虚栄心(恐怖心?)からまるで何も目にしなかったかのように、何の関心もなかったかのように通り過ぎようとした。このまま川崎まで歩いていこうか。「あれ、サトウ君?」あなたが声をかけてくれる。あなたは、あなたの一言がここまで人を幸せにできると想像できるだろうか?

 「ああ、おはようございます!どうしたんですか、こんなところで?」

 私はすこしわざとらしく、笑顔で快活に答えてしまう。少なくともそうしたつもりだ。当然ライブの準備をしに来たに決まっているし、私もこの周辺を歩いていればあなたに会えることを全く期待していなかったわけではないが、それにしても少し時間が早い。ライブは12時開演で、あなたの出番は二番目だったはずだ。

 「会場に入る前にちょっと取材の準備もかねて、この辺りを散歩してみようと思ってるの。今度雑誌で今回のライブを取り上げてもらえることになったんだ。事務所の子たち全員と一緒なんだけどね。」

 そう言ってあなたは同じ事務所の女優、アイドル、声優の名前を挙げる。もう私はあなたを見ることはできなくなっていた。代わりに私は休日の早朝から賑わいを見せる釣り船が出入りしている、羽田水門に目をやった。知り合いの写真家がその水門を絵葉書にしたものをプレゼントしてくれた。アナログカメラで撮影したポートレートで、東から入る太陽光がレンズに虹彩を作り出し、どうやって現像したのか色褪せたセピア色の空がありふれた構造物にノスタルジーを加えている。

 

≪続く≫